もし、シネマシティが「お金」をテーマにした映画祭を開催するとしたら……上映作品はこの5つ
「極上音響上映」「極上爆音上映」などで知られる東京都立川市の映画館・シネマシティにて、企画を担当している遠山です。シネマシティは11のスクリーンを持ついわゆるシネコンではありますが、全国各地にある他系列のシネコンとは違い、立川にしかありません。
大手シネコンチェーンの寡占化が進む中、シネマシティは「映画ファンのためのシネコン」を標榜(ひょうぼう)し、さまざまな独自の戦略を展開してきました。四面楚歌の戦場をサバイブせんと、一騎駆けで日々狂奔(きょうほん)しています。シネコンですから、大抵の話題作は他の劇場と同様に上映していますが、それだけでは大手に到底敵いません。
そこでシネマシティでは、いわゆる単館系やミニシアター系と呼ばれているような小規模公開作品を積極的に上映することで、差別化を図っています。
そして、独自企画として旧作を次から次へと上映し、シネマシティが誇る最高の音響を体感していただきつつ、映画ファンの皆さまに「まさかこの映画をスクリーンで観ることができるなんて」という興奮もお届けしています。
僕の役割は、シネマシティならではの独自企画を作ることです。そして今回「お金にまつわる映画を紹介してほしい」という依頼をいただいたので、もしシネマシティで「お金」をテーマに映画祭を開くなら……という想定で作品を選んでみました。
古典あり、エンタメあり、邦画あり、アート系あり。バラエティーに富んだ5本になったのではないでしょうか。
国も時代もテーマもバラバラですが、全部観れば「お金」とは何か……というのがちょっとだけ分かるかもしれません。
(※ここからは、作品のあらすじなどに触れています)
映画が描く、美しく道徳的なお金 『素晴らしき哉、人生!』
映画というのは、基本的に「大衆娯楽」です。他の芸術・娯楽に比べると格段に制作費などのコストがかかるので、少人数に鑑賞してもらえればそれでいいというわけにはいきません。
それなりの人数に入場料を支払っていただくことで、初めて成立するビジネスなのです。さらに、映画館というパブリックな場で上映されるという状況も鑑みれば、反社会的なメッセージを持つ作品は自然と少なくなります。
ほとんどの映画は、それなりの人数に見てもらうために「道徳的」にならざるを得ないのです。これらの要素を踏まえて、お金を題材にした映画で“最も美しく道徳的”な作品を挙げるとすれば、1946年制作のアメリカ映画『素晴らしき哉、人生!』ではないでしょうか。
始まりの舞台は、しんしんと雪が降り積もるアメリカの小さな街。ある夜、住民たちがある1人の男を救ってくれと神に祈りを捧げています。
その祈りは遙か天高くまで届き……一転、幾千もの星が輝く宇宙で、神々が「この男、もう少ししたら身投げしてしまいそうだから救ってやるか」などと話し始めるのです。神が発言するたびに、銀河はピカピカと光ります。なかなか突拍子もないオープニングです。
街の人々が救ってほしいと祈っていた渦中の人物は、この物語の主人公であり、住宅ローン会社で社長を務めるジョージ・ベイリーという男です。つまりは金貸し。
かなり生々しくお金が絡んでいる職業の一つでもあります。しかしジョージは、金貸しという職業ながら、驚くほど純朴で、街中の人に愛される善人として描かれているのです。
多くの人が「ジョージを救ってほしい」と祈っているのを見た神は、まだ翼のない見習い天使をジョージのもとへ送ろうと思い立ちます。そして神は「助ける男のことは知っておいた方がいい」と、この男がここに至るまでにどんな人生を歩んできたかというのを、見習い天使に見せていくのです。
ジョージの過去をたどるように、物語は進んでいきます。これまでの人生を見終わり、現実に戻ると、ジョージは従業員の失敗で大金を失っていました。あとは自分の生命保険で立て替えるしかない……と考え、自殺を考えているようです。
そんなときに目の前に現れたのが、神に使わされた見習い天使(なんと、初老のおっさん!)。絶望しているジョージに対し、見習い天使は「ならば、あなたが存在しなかった場合の街の様子を見せよう」と告げます。
すると、穏やかだったはずの街は、いかがわしい歓楽街へと変貌。ジョージが救ってきた人々は、不幸のどん底で暮らしているではありませんか。ここでジョージは、不幸続きだと思っていた自分の人生が決してムダではなかったと悟り、現実に戻って家族が待つ家へと帰ることにします。
そして起こる、クリスマスの奇跡。この結末は、本当に、涙が幾粒もこぼれます。あまりにもタイトル通り「素晴らしき哉」なので、中学だか高校のときにこの映画を見た僕は、ジョージのように献身的に生きようと決意しました。
そして、シネマシティもこの映画に登場する「ベイリー住宅金融社」になるべく近づけるよう努力しています。
「あなたはこの街で、最も豊かな人だ」という、最後の場面で聞く街の人のせりふを、僕は生涯忘れることはないでしょう。この「豊か」とは、もちろん積まれた札束を指すわけではないということは、言うまでもありません。
そして勘の良い映画ファンの方なら気付いたかも知れませんが、1989年制作のアメリカ映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』は今作のパロディをやっているんですね。
とにかくお金が好き! 『ひみつの花園』
2作目に紹介する『ひみつの花園』1997年公開の日本映画です。男子高校生がシンクロナイズドスイミングに挑む『ウォーターボーイズ』や、高校の吹奏楽部を描いた『スウィングガールズ』で有名な矢口史靖監督の初期作品になります。
矢口監督の才能がきらめく、荒唐無稽なナンセンスコメディの傑作。面白いだけでなく、ちゃんと深みもあるのが本作のすごいところです。同名の古典文学が有名ですが、同作との関連性はありません。
主人公は、小学生の頃からお金が大好きで、銀行員にまでなってしまった鈴木咲子という女性。ある日、勤めていた銀行が強盗に襲われてしまい、お金を詰めたスーツケースとともに車のトランクに入れられて拉致されてしまいます。
山奥に逃げたその車は、なんと事故を起こして大爆発。スーツケースもろとも吹っ飛ばされた咲子は、ざぶんと川に落ち、滝へ落ち、流れ流れて……たどり着いたのは地下洞窟。
そこで、大金入りのスーツケースは水底に沈んでしまいます。救助された咲子は、マスコミに取り上げられ、時代の寵児になるのです。超展開で進む本作ですが、これでもまだ映画が始まって10分ほどの出来事。
こいつはスゴい映画だぜ!そこから咲子はしばらくグダグダした後、水底に沈んだスーツケースを探しに行こうと決意します。とにかくお金が大好きだから。子どもの頃から貯めに貯めたお金であろうと、必要ならば惜しげもなく散財してしまうのが咲子。
大金を見つけるためならば、地質学を研究するための大学受験、車の免許取得にクライミング、ダイビングにも手を出します。普段は無気力でボーっとしているのに、これと決めたら純粋無垢で、猪突猛進で、完全集中。次から次へと知識も技術も身に付けていく様子が、爽快この上ないのです。
咲子を演じるのは、本作が映画初主演だった女優の西田尚美さん。ショートカットの超美少女という清楚な佇まいなのに、着飾ることや恋愛なんかには全く興味がないという咲子を痛快に演じます。
とにかくお金、お金。本作で描かれる「お金」は、欲望を満たすツールとして描かれているわけではありません。生きる意味そのもの、つまり「希望」とか「幸福」のメタファーとして扱われているのがとてもユニークです。大金を求める咲子の目的は、ハイブランドの服やアクセサリーを買い込みたいというものでも、連日のように三つ星レストランで舌鼓を打ちたいというものでもありません。
本作では、本来であれば何かを手に入れるために必要とされるはずの「お金」が持つ目的と手段を逆転させることで、コメディー作品として笑わせながらも、強烈に「拝金主義」を風刺しているというわけです。
咲子がラストで選択する生き方を見ていると、あまりに清々しく、思わず見ているこちらがガッツポーズをしたくなります。日本映画が誇る主人公の一人だと思います。
罪を感染させていく伝染病のようなお金 『ラルジャン』
続いて紹介する『ラルジャン』は、トルストイの小説を原作とした1983年公開のフランス映画。その年に開催された第36回カンヌ国際映画祭では、監督賞を受賞しています。
こう書くと、なんだか難解な芸術映画と思われるかも知れません。ですが本作は、ムダを極限までそぎ落としたソリッドな演出と編集を堪能できる、緊張感が緩むことのないサスペンスフルな傑作です。
物語は、ある金持ちの家庭で暮らす高校生の息子が、親から小遣いをせびり損ねてしまい、悪友にそそのかされてニセ札を手にしてしまうところから始まります。息子は、そのニセ札を使って近くのカメラ店で安い写真立てを買い、釣り銭で本物の金を手に入れるのです。
その後、店へ帰った店主はニセ札に気付きます。あまりに腹立たしいので、若い店員に対して、灯油を配達しにやってくる男への支払いにそのニセ札を使うよう言いつけます。
配達の男は、ニセ札だと気付くことなくそのお金を受け取ってしまいます。そして、帰りにカフェへ寄って休憩し、支払いにそのニセ札を使ってしまうのです。しかし、ここでそのお金がニセ札であるとバレてしまい、配達の男は逮捕されてしまいます。
配達の男が「自分は知らない、これはカメラ店で受け取った金だ」と訴えるので、警察はカメラ店へ向かいます。そこでカメラ店の店主は、ニセ札を渡すよう指示した若い店員に幾ばくかのお金を握らせ、「そんな男に金を払った覚えはない」と偽証させるのです。
その後、配達の男は刑務所へ送られてしまいます。かくして、子供のいたずらから始まった「悪意」は、あれよあれよという間に増殖していき、関係した者の人生を大きく狂わせていくことになります。
しかし、これはまだ今作の前半にすぎません。物語の後半で、事態は驚くべき悲劇へと突き進んでいくのです。今作で描かれる「お金」は、人の悪意を象徴した「ニセ札」という小道具として登場します。
最初は小さくてささやかな出来事だったのに、人を介してどんどん増殖していくことで取り返しのつかない破滅をもたらすというその様子は、まさに伝染病のよう。
「イワンのばか」をはじめとする民話風の小説も書くトルストイらしい道徳的な物語ですが、本作は恐ろしい結末を迎えます。タイトルにも使われているフランス語の「ラルジャン」は、日本語に訳すと「お金」。このセレクションにふさわしい1作です。
お金を焼き尽くすことで狂気をあぶり出す 『ダークナイト』
現代のアメリカ映画を代表する才能、クリストファー・ノーラン監督が手掛けたダークヒーロー「バットマン」シリーズ3部作。その2作目が、2008年に公開された『ダークナイト』です。
3部作とはいえ、この1本だけでも十分にストーリーは分かります。DCコミックやマーベル・コミックに登場するヒーロー映画があまりにも成功しているため、やたらと作られまくっているアメコミ映画に食傷気味の映画ファンもいるかと思いますが、今作はそういう映画ファンにこそ見ていただきたい作品です。
主人公・バットマン最大のライバルである、ジョーカーという悪党との戦いを描いた本作。「正義を為す」という名のもとに何がどこまで許されるのか……をテーマに、物語を通して「倫理・道徳」の定義を問います。
ヒーローものと言いつつ、スーパーパワーで悪をボコボコ! ドカーン! といった勧善懲悪的な爽快感とは真逆をいく、ずしんと重い内容です。冒頭は、鮮やかな手口で現金を奪う銀行強盗のシーンから始まります。
ピエロの仮面をつけた悪人集団が、正面入口や隣のビルからロープを伝って上階へ侵入し、行員だけでなく用済みの仲間をも次々と撃ち殺しながら、金庫の大金を強奪します。
その集団の最後の生き残りがジョーカーです。このシーンはもちろん、この後に描かれる「バットマンを殺す代わりに、組織にある資金の半分を寄こせ」とマフィアに交渉する場面を見れば、多くの悪党がそうであるように、ジョーカーという男もお金が目的なのだと観客は思うでしょう。しかし、物語の中盤。
ジョーカーは、高さ3メートルは積まれているであろうとてつもない量の札束に、石油をまき散らして火を放ってしまいます。
薄暗闇の中、煌煌(こうこう)と燃えさかる現金の山。それを見て唖然とするマフィア。それはきっと、観客も同じはず。欲しかったものがお金でなければ、ジョーカーの目的は復讐なのか? しかしジョーカーとバットマンの過去に接点はなさそうです。
ここで燃え尽くされるのは、札束だけでなく観客の「常識」もなのです。ジョーカーという悪党の、目的と理由が見えない、底なしの狂気犯罪が炎の明かりにあぶり出されるのです。街自体を牛耳ることができるほど大量のお金を焼くことで、ジョーカーという存在に強烈な印象を与える素晴らしいシーンです。
これ以降、ジョーカーは目的と理由が分かりやすい銀行強盗のような犯罪は行わず、誰かと誰かの命を天秤に掛けながら、バットマンに選択を迫るようになります。果たして、人の命の重さに軽重はあるのか。
当然、ジョーカーは長考する時間を与えません。そして物語は、大勢の民間人が集まる場所にそれぞれ設置した時限爆弾のうちどちらを止めるか? といった「道徳的に不可能な選択」を求めるシーンへ進みます。
これと似た倫理学の思考実験で、ジョン・ハリスという倫理学者が提唱した「サバイバル・ロッタリー(臓器くじ)」と呼ばれるものがあります。ざっくり説明すると、くじで健康な人をランダムで選び、その人を殺してさまざまな臓器を取り出した後、臓器移植を必要とする何人かに分け与えるという内容です。1人の命で、複数人の命を救う。
明らかにメリットの方が大きいように見えますが、果たして許される行為でしょうか。これがサバイバル・ロッタリーの問題提起です。あるいは、無人島に5人が漂着したとします。
全員が生き続けるにはある薬が必要ですが、それは1人分しかありません。平等主義を取って5人に5等分すると、全員が死んでしまう。それを回避するために誰か1人を助けるのであれば、誰を選ぶべきか。
この5人に犯罪者、芸術家、政治家、富豪、妊婦といった個性を付けていくと、より問題が複雑で高度になっていきます。『ダークナイト』では、こういう正答のない激烈な問い掛けが、ジョーカーによって次々と繰り出されるのです。
この問題提起の輪郭をより明確にする「この犯罪の目的は金儲けではない」という前提を、作り手は「お金」を焼き払うことで表現しているのですね。
自分を輝かせるためにお金を使う 『バベットの晩餐会』
倫理・道徳的には許されぬとしても、お金が欲しいという単純な利己的理由ではなく、社会が盲信している上っ面の常識や考え方に疑問を投げ掛けることに人生を賭けたジョーカーの純粋性には、心打たれるものがあります。
ですがこの“映画祭”の最後は、ジョーカーの目的と似ているとはいえ、ジョーカーよりもずっと穏やかで、ずっと美しい行動を取った女性の物語を紹介しましょう。
1987年に公開されたデンマーク映画『バベットの晩餐会』です。今作の舞台は、19世紀末のデンマーク。ある日、パリ・コミューンの革命によって家族を失い亡命したフランス人女性・バベットが、小さくて貧しい寒村に住む、年老いた姉妹のもとへ「メイドとして働かせてほしい」と訪れます。
この村に住んでいるのは、姉妹も含めてほとんどが年を重ねた老人です。そして、父親が有力な牧師という厳格な家庭で育った姉妹に限らず、村人たちも敬虔で、禁欲的で、実に質素な生活を送っています。
一方バベットは、パリからやってきただけあって、派手ではないものの非常に洗練された服装や立ち振る舞いをします。しかし、立場を逸脱することなく、献身的に姉妹に仕えるのです。
そして、14年後。バベットに大きな転身のきっかけが訪れます。パリの友人が毎年贈ってくれていた宝くじが当選し、大金を手にするのです。姉妹は、これでバベットは出ていってしまうだろうと嘆きます。
そして「話がある」と姉妹の部屋を訪れたバベット。そのまま別れの挨拶をするかと思いきや、近く行われる予定だった姉妹の父の生誕100年を記念した晩餐を、自分に作らせてほしいと願い出たのです。
しばらく家を空けたバベットは、大量の食材をフランスから取り寄せます。それらを見て「バベットはおかしくなってしまった、これでは魔女の宴だ」とうろたえる姉妹。晩餐の当日も、招待客である村人たちに「食べてもいいが、決して料理について話題にしてはならない。味わってもいけない」と強く言い渡します。
そんな姉妹の言葉にも構わず、淡々と、手際良く料理を作っていくバベット。彼女の手から生み出されるのは、この小さな村の住人たちがこれまでに見たことも、もちろん食べたこともないような、華麗なる本格フランス料理のフルコースです。
それは、敬虔で、禁欲的で、質素極まりない生涯を送ってきた村人たちがその長い人生で初めて味わう、視覚と味覚の交響楽とでも称すべき天上の悦楽でした。
ネタバレと言うには容易に想像がつくと思うのであえて書きますが、バベットは宝くじの当選で手にした金額の全てを、この一夜の晩餐会につぎ込んだのです。なるほど、14年前に貧しくても自分を雇い入れてくれた老姉妹への、これはお返しなのかも知れません。しかし、僕はこう考えます。
バベットは、それまで秘めに秘めていた、いやむしろ発揮する機会などもう二度とないと諦めていた類い希なる才能と卓抜した技術を、もう一度使いたかったのではないかと。
そして、それが叶うのであれば、人生の全てを投げ出したとしても少しも惜しくはない。そう思ったに違いありません。だからこれは、聖なる犠牲の物語ではなく、真の芸術家の物語でしょう。
己が人生において何を為すべきかを知る人間にとって、「お金」はこのように使われるのです。「なぜこんなことをしたのか」と問われたバベットの、どんな豪奢な宝飾でもこれほどは輝くまいと思われる美しい言葉は、ぜひ作品を見て味わってください。
以上の5本が、僕の考えるシネマシティ「お金映画祭」選出作品です。サブテーマは「お金の使い方」です。
これらをご覧になったお客さまが、なぜ自分がそれを必要としているのか、それで何をしたいのか、本当の本当に必要以上に欲しいものなのか……ゆっくりと「お金」について考えるきっかけを作ることができたら、企画者としてこんなに幸福なことはありません。
何か一つのテーマを持って鑑賞し、まるで関連性のなさそうな映画と映画の間につながりを見つけるも良し。
鈴木咲子とジョーカーとバベットが似たもの同士だなんて、そんなアクロバティックな発見をしてもらえたら最高です。
この映画祭、いつか本当にシネマシティで実現できたらいいなあ。
立川シネマシティの企画室長。【極上音響上映】や【極上爆音上映】を企画し、多くの映画ファンを熱狂させ、大ヒットを記録。企画だけではなく、立川シネマシティのメルマガ作成やWebページやポスターのデザインなどの広報活動、券売機やWeb予約などチケッティングシステムの開発も携わる。Realsoundにてコラムを連載中。
「編集/はてな編集部」