人生を狂わすレトロゲームの愛しさと切なさと心苦しさと(お金の話)
はじめまして。ゲームブログを運営しているジョーンズ博士といいます。
レトロゲームレイダース 最後のゲー戦
上記のブログは、「おっさんも、お子様も、おねーちゃんも楽しめる」をコンセプトに、「ファミコンソフトをはじめとする面白いレトロゲームを発掘し、何が面白いのかを分析し、アピールして、実際にプレイしてもらうこと」を目的としています。
所有しているゲームソフトの数は3500本以上、所有ゲームハードは55台。レトロゲーム関連にこれまで使ったお金は、計算してみると1000万円以上。いやー、計算しなければよかった。死にたくなりますね(涙)。
しかしながら、「コレクター」と呼ばれる人たちに比べたら自分なんてまだまだです。所有ゲーム数が1ケタ2ケタ違うスゴイ人たちがこの世界には大勢いるわけで。私なんてドラクエIIIで例えるなら2回目のカンダタくらい。いや、カンダタこぶん程度かも。このように、コレクターとしては微妙なポジションの私が、命を削って行っている趣味、それが「レトロゲームの面白さを伝える」です。
よく知らない人から「これ、面白いからやってみなよ」とゲームを渡されたとします。あなたはプレイしますか?
友達や知り合いからの推薦だったらともかく、よく知らない人から言われても「へえ、そうなんだ! やってみよう!」とはならないですよね。
「面白い」と伝えられたことに共感や納得がなければ、人間は行動しません。「面白い」の正体を分解した上で、多くの人が共感できる言葉に再構築して伝える……このようなプロセスがないと、相手を行動させるまでグッとこさせることはできないと思うのです。
つまり何が言いたいかというと、「実際にプレイしてもらうことをゴールにしたゲームレビュー」って、やってみたら時間とパワーがかかりましたという話。
それを趣味にしている私は「ゲームの面白さを伝えたいマニア」であり、世の中に数多くいるレトロゲーマーの中でも、おそらく“異端”な存在です。
ゲームは1日最低1時間
この趣味を貫くには問題がいくつかあります。その1つは「時間がかかること」。とにかく時間がかかります。
なぜか。対象ゲームの面白さの本質が何かを把握するためには、ある程度のゲームプレイが欠かせないからです。1つのゲームのブログ記事を書くために必要なプレイ時間は、作品によって異なるため一概には言えませんが、大体はクリアするまでプレイするはめになります。
シューティングゲームやアクションゲームは、上達すれば1時間ちょっとで済みますが、RPGなんかは地獄です。20時間、30時間はザラです。
最近長くプレイしたのは、『ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて』ですね。レトロゲームじゃないんですけど。PS4版を110時間。3DS版を106時間。今回はロトシリーズに関係があると聞いていたので、発売日前までに『ドラゴンクエストI・II』と『ドラゴンクエストIII』をクリアするまでプレイしました。おかげさまで2017年の半分はドラクエ一色でしたね。
記事のライティングにも時間がかかっています。1記事あたりの文字数は3000~4000文字くらい。ライティングは2~3時間くらい。
プレイして感じたことを、どう表現するか、何に例えるか。いろいろ考えて記事にしていきます。こう書くとロジカルにライティングしているように見えますが、実際は心がとらえた熱いパトスのままに自動書記することが多いです。
私が書いた記事を「熱量が高い」と評価してくださる方もいらっしゃいますが、正確には「熱量しかない」わけで。ここは大いなる反省点です。ごめんなさい。
ゲームのプレイ時間は1日1時間くらいです。これは高橋名人に子供の頃に言われた「ゲームは1日1時間」を曲解して、「どんなに忙しくてもゲームは1日1時間やろう」と自らに課した呪いですね。
私は会社員なので、昼間は会社に通っています。業界は広告系です。どちらかといえば激務。毎日家に帰るのは22時頃。それから風呂に入って、奥さんが作ってくれたご飯を食べて、夫婦の語らいをして、0時過ぎに奥さんが就寝してからゲームの時間……といった流れです。
眠いか眠くないかでいえば、眠いです。ドラクエIIIに例えると、平日はおばけキノコの群れに囲まれ、催眠効果がある甘い息攻撃をずっと喰らっている感じ。仕事にザメハ(缶コーヒー)は欠かせません。
端金(はしたがね)の錬金術師
レトロゲームを趣味にする上で避けては通れない問題の1つが「資金」。レトロゲームは安くて面白いのがうまみだったのですが、昨今のレトロゲームブームの流れによって、いいものは価格が高騰しています。
本業の給与をあてればいいわけですが、家庭を持ったり、子供が居たりすると、なかなかはそうはいかないもの。かといって、少ない小遣いの中からやりくりするというのは、私の性に合いません。
なので、私は「お金をつくって趣味にあてる」という方法を取っています。
まず、大きな影響を与えたのは、マイホーム購入計画ですね。新築の戸建住宅を購入したのですが、いろいろ工夫して1000万円を値引きすることに成功しました。約10年分のローン代をチャラにした計算です。この成果を奥さんにも認めてもらい、浮いた一部のお金はレトロゲーム発掘資金となりました。
あとは、ブログのアフィリエイト。私のゲームブログは稼ぐためのアフィリエイト強化はしていないのですが、毎日多くの読者に読んでいただけていることもあり、そこそこの収入があります。拙いブログなのに恐縮です。ゲーム好きな読者からの恩恵ですから、ゲームに使うのが筋。なので、欲しいと思ったゲームは大体アフィリエイト収入をもとに購入しています。そして買ったゲームの記事を書いて、それでアフィリエイトが入り、また新たにレトロゲームを買う……というスパイラルです。
賢明な読者様は気がついていらっしゃると思うのですが、このスパイラル、コレクションが増える一方です。
基本的に、「買うゲーム=好きなゲーム」であり、「それを売るなんてとんでもない!」というものばかり。結果、ゲームソフト・ハードがどんどん増えていき、ついには自宅に置ききれなくなってしまったのです。仕方がないので、趣味用のセカンドハウスを手に入れました。
貸し倉庫は費用が高いですし、倉庫代は捨て銭であり投資になりません。セカンドハウスは初期投資こそ高いですが、数年先を見越したリモートワーク用のオフィス、ゲーム実況のためのスタジオにもなると考え、いずれ元が取れるという判断でGOしました。
以前、念願のテーブル筐体(ゲームセンターにあるゲーム機)を購入したとき、何か足りないと思い両替機も買おうとしたら、奥さんの怒りがリミットブレイク*1したことがあったのですが、セカンドハウスに置けばこの問題もクリアです。(本当にそうか?)
バンゲリング帝国で開眼【小学生編】
このように、現在はレトロゲーム三昧な生活を送っている不良中年の私。「さぞ、幼少期から名のあるゲーム漬け少年だったのだろう」と誤解されることが多いです。
実はそうではありません。逆に、ゲームをやらせてもらえなかった子供でした。
母が教育熱心だったため、私の家では「勉強の邪魔になるマンガ・アニメ・ゲームは与えない」が基本方針。そのため、ファミコンの購入も同級生の中では一番遅かったと記憶しています。
もともとはサッカー少年だった私ですが、小学2年生の時、お金持ちの友人宅でプレイしたファミコンにすっかり心を奪われてしまいました。『ドンキーコング』、『F1レース』、『ピンボール』、『バルーンファイト』、『ロードランナー』、『ハイパーオリンピック』……すべてが最高にクールでした。
用語解説【1】ドンキーコング……1983年に任天堂より発売。マリオに飼われていたドンキーコングがレディをさらって逃げたのでマリオがお仕置きしに行くゲーム。
用語解説【2】F1レース……1984年に任天堂より発売。ファミコン初期のソフトだが、擬似3D表示とスピード感がたまらない一品。
用語解説【3】ピンボール……1984年に任天堂より発売。ピンボールの雰囲気を残しつつ、コンピュータゲームならではのゲーム性を持つ名作。
用語解説【4】バルーンファイト……1985年に任天堂より発売。風船をつけた主人公が、フワフワと浮かびながら敵を倒していくゲーム。慣性を感じさせる空中戦がアツい。
用語解説【5】ロードランナー……1984年にハドソンより発売。ロードランナーがロボットうごめく地下迷宮で穴を掘り、金塊をすべて手に入れるゲーム。ファミコン版は本家ブローダーバンド社版に比べると大幅にアレンジされている。
用語解説【6】ハイパーオリンピック……1983年にコナミより発売。さまざまなオリンピック種目をRUNボタンとJUMPボタンを使いこなして進めていくゲーム。
家の教育方針という呪縛により私は、友達の家に行ってはファミコンをやらせてもらい、ノートにゲーム画面を書き写し、家に帰ってそれを見て「フフフ……」とうすら笑いを浮かべる子どもへ。
その様子にさすがに「ヤバイ」と思った両親が、ようやく重い腰を上げてファミコン購入に踏み切ってくれました。しかし、今だから告白しますが、すべては計算通りの演技です。お父さんお母さん、ごめんなさい。
なんとかファミコンを買ってもらった私でしたが、神は私に次なる試練を与えたもうたのでした。それはゲームソフト供給問題。カセットを差し換えてソフトを変えて遊ぶファミコンにもかかわらず、差し換えるソフトを1年間で2本しか買ってもらえなかったのです。
仕方がないので、友達が持っているソフトと交換してもらうわけですが、このトレードにはレートがありました。私の持っている少し古いソフトでは、少し前に発売された評判があまりよくないソフトとしかトレードできません。
ゲームはやりたい。でもトレードできるソフトはちょっとアレだ。でもゲームはやりたい。出口のない欲望の袋小路。少年はこの状況を乗り切るために、「どうプレイすれば面白くなるか」を考えていく方向に進化したのです。
こちらから一方的に“つまらない”というレッテルを貼るのではなく、“つまらない”と感じているこちらの前提が間違っている可能性を考え、双方が幸せになる着地点を考えよう、というもの。相互理解の基本的姿勢。大人びた考え方。
少年は無理やり精神を成長させなければならないところまで追い込まれていたのです。今にして思うと、私のゲームに対する基本理念はこの時に形成されたのかもしれません。
この着想を与えてくれたのは、当時から何をやっていいか分からないクソゲーといわれた『バンゲリング ベイ』という作品と、勁文社(ケイブンシャ)から発売された『ファミリーコンピュータゲーム必勝法シリーズ3 バンゲリング ベイ』という攻略本です。
『バンゲリング ベイ』というゲームは、戦力を増していくバンゲリング帝国の基地に襲撃をかけつつ、母艦である空母を守る「戦局を読むシューティング」。今でこそ「リアルタイムストラテジーシューティング」といったジャンル名が付きそうなイカした作品ですが、時は1980年代、ビデオゲームチェリーボーイな小学生のお子様たちにはさっぱり理解できない内容でした。
発売元にもその面白さを伝えようという気が感じられず、説明書を見ても何が面白いのかさっぱり分からない始末。お子様たちは2コンのマイクで「ハドソーン!」と叫ぶ裏ワザを多いに楽しみ、しばらくすると中古屋に売ってしまいました。ウチの近所の中古屋さんは『バンゲリング ベイ』の在庫がたまりすぎて買い取り禁止にしていたほど。いやはや、ひどい話ですね。
ところが、攻略本には『バンゲリング ベイ』のくわしい世界設定とゲームの背景にある熱い展開が書かれていました。バンゲリング帝国が何なのか。自機が守っている空母の使命は何なのか。自分は何をしなければならないのか。欠落している情報が埋められた途端、『バンゲリング ベイ』はまったく別ものといえる面白いゲームとして輝きだしたのです。
この攻略本に書かれていた世界設定やストーリーは、公式のものではなく攻略本の編集者が勝手に作ったものだそうです。しかし、情報が補完されることでプレイの印象が変わるというのは、私にとって大きな発見でした。
かくして、私は新作よりちょっと古いゲームを専門に、自分独自の理解や独自プレイルールを課して、そのゲームの楽しみかたや面白さの追求に、ひたすら明け暮れるのでした。
MSXという名の楽園【小学校高学年~中学生編】
そんな私にも絶体絶命の危機が訪れます。それは小学校高学年のときに起きた、教育熱心な親による「ファミコン撤去命令」です。理由は、「教育によくない」「バカになる」「ろくな大人にならない」。なんということでしょう。すべて正論です。やはり、親の意見と茄子の花は千に一つもあだはありません。
ファミコン購入から2年、親の想像を超えるゲームバカになっていた息子は、この絶体絶命の危機を逆にチャンスと考え、こう切り出したのでした。「たしかにファミコンは勉強のジャマになります。でもパソコンならどうかな?」と。
当時、まだNECのパソコンPC9801シリーズが40万円台だった時代。しかし、これからの世の中パソコンが普及することは確実と言われていました。早いうちからパソコンに慣れておくことはマイナスではない。むしろプラス。未来への投資ではないか。
このような約1時間にわたるプレゼンテーションによって、私はまんまとファミコンの4倍以上の値段のホビーパソコン『MSX2+』を手に入れることに成功したのでした。
今だから言えますが、真の目的はMSXのちょっとHなゲームをやることでした。お父さんお母さん、ごめんなさい。しかし、「自分でゲームを作れる」というところに惹かれたのも事実です。
用語解説【7】MSX……1983年に米マイクロソフトとアスキーによって提唱された8ビットパソコンの共通規格の名称。その後継規格がMSX2。MSX2+はそのバージョンアップ版。私が購入したのはSONYのHB-F1XDJという機体でゲーム開発向けのソフトがいくつか付いていてアツかった。
世間が、PCエンジンだ、メガドライブだ、スーパーファミコンだのと騒いでいる中、私は独学でプログラミングとドット打ちを学び、女の子が次々と生えてくる雑草をひたすら抜いていくゲームや、女の子が3Dダンジョンでジャンケンしていくゲームといった、しょうもないものを量産しながら、ゲームの面白さはどうやって作られていくのかをずっとトライ&エラーしていたのです。
今にして思うと、この時のゲーム制作経験がゲームの面白さを分析するクセを形成させたのかもしれません。
そんな私のMSX熱は、『MSX・FAN』という雑誌のMSX版ソーサリアンシナリオコンテストまで続き、1995年に雑誌が休刊したことにより終わりを告げました。その後、遅れを取り戻すかのようにコンシューマゲームをやりまくり、その後に控えていた受験が大ピンチになったのはまた別のお話です。
用語解説【8】MSX・FAN……徳間書店インターメディア(現、徳間書店)が発行していたMSX専門誌。アスキーから出ていたMSXマガジンよりも、個人的にはこっちが好みでした。投稿プログラムコーナー「ファンダム」にはお世話になった。
そして時代は1990年代中盤以降の次世代機ブームへ。ニンテンドー64か? セガサターンか? プレイステーションか? ゲーマー1人ひとりがどのハードを買うかが問われていたころ、私の長年培ってきた勘が「あるハードが来る!」と告げていました。それは『3DO-REAL』。その判断が間違っていたことは、意外と早く明らかになります。
用語解説【9】3DO-REAL……松下電器産業が1994年に発売したゲームハード。正確には、インタラクティブ・マルチプレイヤーというゲーム以外の用途も視野に入れたハード。「MSXのときはSONYだったが今度はPanaを応援するぜ」とバイト代すべてはたいて購入したものの1年くらいで勝敗が見えてきた。残念。
でも悔しかったので、『3DO-REAL』のゲームを中心に、いろいろなゲームのレビューやゲームの企画をホームページにアップしていました。すると、それを見たゲーム制作会社の社長からお声がけをいただき、就職できることに。人生、何がどう転ぶのか分かりません。
ゲームバカの本懐【社会人編】
ゲームのコレクションを集め出したのは、高校生ぐらいから。小遣いのほとんどをゲームにつぎ込みました。社会人になってからはさらに加速することに。
平日も休日もゲームショップ、リサイクルショップめぐり。彼女との旅行で、旅行先に古いおもちゃ屋さんがあったら迷わず訪問。お土産を買うくらいならゲームを買っていました。彼女の誕生日プレゼントを、指輪かゲームか悩んでゲームを買って怒られたことも。
当時の私に貯金という概念はなく、収入=ゲーム資金。手取り22万円は、デート代と食費以外はほとんどゲームに消えたほど。50万円くらい入ったボーナスもすべてゲームに消えました。その場の雰囲気で、「スケルトンのセガサターンか。買おう!」「キティちゃんのドリキャスを買おう!」と購入。ゲームコレクションは果てしなく増え続けました。
そうこうしているうちに会社が倒産。私は失業しながらも、ゲームに関するホームページ更新を熱心につづけ、おまけに当時付き合っていた彼女に借金をしてまでゲームを買う始末。恐ろしいことに私は、そんな自分を「好きなことをして生きている!」と自己肯定しかしていませんでした。
そんな私に、ついに彼女が言い放ちます。
「お金は返さなくてもいいから、今すぐ別れてくんない?」
衝撃でした。ドラクエ3に例えると、冒険の書が1~3まですべて消えて、出荷時の状態に戻ったときくらいのダメージ。一体私の何が悪かったのでしょう。しかし、思い返せば思い当たることばかり。ここに来て、ようやく私は誰も得をしないゲームコレクション暴走に、ストップをかけることができたのです。
とりあえず結論を保留して家に帰り、部屋にあふれるゲームたちを目の前に、自分はこれからどうするべきかを考えました。
やるべきことは分かっています。ゲームコレクションをすべて売って、そのお金で彼女に借金を返し、復縁をお願いすること。1日真剣に考えて、結論を出しました。
「やっぱり、ゲームは売らない」
クズと思われるかもしれません。でも、クズなりに考えたことがあったのです。
集めたのは大好きなゲームばかり。それを売るということは、そのゲームたちに「用なし」の烙印を自分で押すということ。購入したゲームは、名作から不出来なものまでいろいろありますが、「楽しい時間をありがとう!」という感謝の気持ちがありました。
ゲームのプレイ時間って、正直なところ、人生の中では何も生み出さない非生産的なものですよね。たぶん、無駄だと思います。だから、「暇つぶし」くらいの付き合いが、一番健全なのだと思います。
自分でプレイしただけなら、それは自分の満足で終わってしまう。自分の人生の消費だけで終わってしまう。
でも、その面白さを多くの人に伝えられたら。知られていないその作品の面白さを誰かに伝えて気づかせてあげることができたら。
自分のゲームプレイの時間には意味が生まれるのではないか。生産的な一面が生まれるのではないか。そして、多くの人に魅力を伝えることでコンテンツにスポットを当てられれば、その作品を作ってくれた制作者たちに、権利を持つメーカーに感謝の気持ちを伝えられるのではないか。そう考えたのです。
もちろん、これまで私のワガママに付き合い続けてきてくれた彼女への感謝の思いもまだ伝えきれていません。直接会って、前述した通りの話をしました。頬をひっぱたかれました。まあ、当然、そうなりますわな。
そんなこんなのドッタンバッタン大騒ぎの末、転職してライターになった私は、仕事が一段落したのと子供が生まれたのを機に、レトロゲームの魅力を再発見するブログをスタートすることになったのです。ちなみに、上記の彼女さんが今の奥さんです。
人生を変えた3つの作品
大好きなゲームがたくさんあるのですが、自分の人生に大きな影響を与えたと思える作品をピックアップしてみました。
『イース』(MSX2/2+版/1986年/日本ファルコム)
これは、お金持ちの友人の家で見せてもらい、プレイさせてもらい、ノックアウトさせられた作品です。自分はゲーム制作を仕事にすると決意した1本。何がスゴイのかうまく言語化できないのですが、いろんな才能が集まることでスゴイ作品が作れるということに感動した感じ。『王立宇宙軍 オネアミスの翼』*2を初めて観たときの感覚に近いです。優れた移植作品・リメイク作品が複数ありますが、個人的には最初にやったMSX2/2+版が至高です。これは完全に刷り込みですね。
『MOTHER』(ファミコン版/1989年/任天堂)
実は、発売当初はプレイできなかったのでプレイしたのはずっと後でした。「RPG=ファンタジー」が常識だった時代に、「日本人にとってはハリウッド映画のアメリカもファンタジーだろう」といった発想に驚きました。主人公たちの旅がどんな意味があるのかが最後の最後で明かされて、「エンディングまで泣くんじゃない」というキャッチコピーがまさにその通りの展開でヤバイ。子供に絶対プレイさせておきたいゲームです。
『ときめきメモリアル』(PCエンジンSUPER CD-ROM2版/1994年/コナミ)
中学生のときに手ひどい失恋をして、それ以来、女性恐怖症になり、3年間ぐらいまともに女の子と会話もできなかった灰色の高校時代。女の子の前でどんな風に振る舞えばいいのか、そのリハビリになったのがこちらの作品でした。今思い返すとアレなのですが、主人公のセリフを声に出しながらゲームプレイして、リアルでの自分が行なうべき言動をシミュレーションしていました。マジで恋愛シミュレーションしていました。うん、イタい。そして笑えませんね(笑)。
レトロゲームって、ロストテクノロジーの結晶
レトロゲームって、最新のゲームに比べたら、グラフィックはしょぼいし、できることだって少ない。でも、だからといって劣っているわけじゃない。逆に、レトロゲームが今のゲームより優れているとも思いません。それぞれによさがあり、違う面白さがあるのではないでしょうか。
詳しく調べてみると、ハードスペックが低いゆえに、アイデアと工夫が宝庫なんです。それどころか、今では失われてしまった技術が使われているということも。
ドラクエIIIで例えると、スーパーファミコン版のドラクエIIIと、ニンテンドー3DS版ドラクエの2Dモードを比べると、ドットグラフィックは昔のほうが上手いんですよね。当時のグラフィック職人の磨き上げられた技だったからこそできたものが、今はもう再現できないということも多いです。
レトロゲームって、ロストテクノロジーの結晶なんですよ。それが、古いという理由だけで低価格で取引される。それはおかしい。逆に、別の理由で本来の価値以上の価格で取引される。これもおかしい。私はそう思っています。
私よりも情熱を持って活動されている方も、真面目に専門研究されている方もいらっしゃいます。そういった方たちと一緒に、私などは微力ですが、レトロゲームという分野を盛り上げていければと思っています。
個人的には、レトロゲームはただオッサンが昔を懐かしむだけのコンテンツではなく、若い人たちを中心に多くの人たちが楽しめるコンテンツになってほしいです。
今の一番気にしているのは、死ぬまでにコレクションをすべてプレイしてブログの記事に載せられるかどうかですね。睡眠時間が少なく説得力がないかもしれませんが、健康には充分気をつけていきたいと思っています。
ライターとして働くのは仮の姿。その正体は、ゲームメーカーでのプランナー経験を活かし、日夜、埋もれていく名作ゲームを発掘し、その真の価値を世の中に広めようとしている正義のアホ。そんな私を俺は、「レトロゲームレイダース」と呼ぶ。
*1:ダメージを受けるとリミットゲージが溜まり、満タンになるとリミットブレイクと呼ばれる状態になる。またの名をブチギレ時。FF7で登場。
*2:1987年製作のアニメーション映画。「新世紀エヴァンゲリオン」のガイナックスデビュー作(そもそもガイナックスは本作のために設立された)。その類い稀な映像美とストーリー性で伝説的な作品として知られている。当時はまだ無名ながら、庵野秀明、樋口真嗣、貞本義行、藤原カムイ、岡田斗司夫といった、後に大成するクリエイターが多数製作に参加している。さらに音楽監督に坂本龍一が起用されたことも話題に。