恋人は「あんこ」 和菓子屋巡りの、甘いあまい日々
自分でもあんこ作り
まずは簡単に自己紹介から。生来のシャイなので、少し秘密のベールに包んでさらりと述べようと思う。半透明な皮の奥にあんこが透けて見える、まるでくず桜のような自己紹介になるが、お許しいただきたい。
私は、おまんじゅう屋やだんご屋などで売っている「あんこ」を前面に出した和菓子が好きだ。週に1回、自己流のセンサーをフル回転させながら、和菓子屋巡りを楽しんでいる。
世間では洋菓子の方が人気で、子供の多くは「和菓子より洋菓子が好き」といわれている。その影響もあってか、ここ最近は、3~4代と続いた歴史ある和菓子屋が店じまいするところを随分と見てきた。そして、店主の悲しそうな顔も。
「これはいかん」と思い立ち、さとう祐介というペンネームで、2017年2月にブログ「週刊あんこ」を立ち上げた。ここでは、主にあんこ菓子の魅力を発信している。
ブログで発信するということは、もともと所属していた活字メディアでの経験や、広告会社でコピーライターをしていた知見が生きていると思う。そして、私には何よりも「あんこが好き」という原動力がベースにある。冗談ではなく、最後の晩餐ではあんこ菓子をずらりと並べて、それらをじっくり味わいながら最後の時を迎えたい。そう思っているくらいだ。
あんこに恋してしまった、そのきっかけの「串あんだんご」
そんな私があんこのおいしさに初めて“やられてしまった”のは、小学生1年生のとき。風邪をひいて学校を休むことになった私に、母が桃の缶詰と串あんだんごを用意してくれた。こしあんのおいしさと餅の柔らかさが印象的で(たまに固い時もあり、そのときはちょっとがっくりした)竹串の竹の香りも記憶に焼き付いている。当時住んでいたのは東北地方の城下町で、周辺にはそれなりに良い和菓子屋が多かった。
母に看病してもらって以来「風邪をひくと串あんだんごが食べれる」というのが頭に刷り込まれてしまった私は、大した熱でもないのに、何度かずる休みに近いことをしてしまった。今は深く反省している。
しかし今思うと、これよりもっと前からあんこが好きだったのだと思う。なぜなら、兄弟の中で、私だけがいつも串あんだんごを食べていたからだ。
中学生になると、部活動が忙しくなった。サッカー部に所属していて、運動量が多かったこともあり、練習後は自宅まで空腹を我慢することができなかった。帰る際は、いつも駄菓子屋へ寄り道していた。
よく買っていたのは、砂糖が雪のようにまぶしてあり、中にこしあんが入っている楕円形のあんドーナツ。揚げパンで、お腹も満たされるため、当時の私にとって“胃袋の恋人”のようだった。毎日のようにこれを2個(ときには3個)買っていて、食べている間はとても幸せだったのを覚えている。食べ終えるのが悲しくなるほど、あんドーナツにハマっていた。
大学を出て、就職。広告会社から新聞社に転職すると、取材であちこち飛び回った。デスクに叱られ、時には褒められ、酒の席も多くなる。最後はラーメンというのが普通のコースだが、私の場合はその先があった。あんこ菓子、である。
比較的早い時間に解散したときは、甘味処に入ってお汁粉かぜんざいかおはぎを注文する。店が開いていないときは、コンビニかスーパーで豆大福やあんパンなどを物色していた。酒の席をそっと抜け出してあんこ菓子を買いに行き、隠れるように食べたこともある。
当時は「あんこが大好きだ」と言うと「お前、男のくせにおかしいよ」と笑われる風潮があった。なので、友人や知人には酒好きの「左党」*1だけの顔を向け、あんこ好きの方は内緒にしていた。
この時代にハマったのが、伊勢名物の「赤福」だった。出張が多かったので、関西方面に行ったときはJR駅構内でこれを買う(それは今でも続いている)。経木のふたを開けると、こしあんがびっしり付いた赤福餅が現れる。たっぷりのこしあんと柔らかな餅。それをヘラですくって食べる。北海道産小豆の風味と濃厚な甘さにハマった。
赤福が食べられないときは、東京・門前仲町にある伊勢屋がもっぱらの贔屓(ひいき)。ここの「深川餅」も好みで、赤福ほどのねっとり感はなく、きれいなこしあんと求肥餅(ぎゅうひもち)が実にうまい。特に甘さを抑えたこしあんが魅力的だ。時には、仕事の合間(というとカッコいいが、サボって行ったというのが正しいかもしれない)に立ち寄ることもあった。
職人の手のぬくもりがするあんこ菓子を探し歩く“あんこな生活”
さて、ここから本題へと入っていく。今楽しんでいる“あんこな生活”は、子供のときに大好きだった、こしあんで包まれた串だんごの延長線上にある。串だんごから入り、豆大福、おはぎ(ぼた餅)、鹿の子、今川焼き、鯛焼き、あんバターのコッペパン……つまり、手あたり次第に世界が広がっていった。
あんこにはさまざまな種類がある。こしあん、粒あん、大納言、白あん、うぐいすあん、栗あんなどが素材を生かしたあんこの代表的なもので、困ったことに、私はこのどれもが好きとくる。女房にもあきれられるほど(自分でも半分あきれているが)のあんこフリークであり、「ハイハイ、あなたの恋人は“あん子さん”ね」と小バカにされている。
さらに、あんこ菓子の種類も多い。中でも私が特に好むのは、小豆の風味とおいしさが最も滲み出る、あんこを使った生菓子。それも、和菓子職人の手作りに限る。作っている職人さんの手の匂いが香り立つような、そんな生菓子だ。
また、あんこの生菓子には、店と職人にある意味の“レベル”がある。例えば、京都・清水五条にある上生菓子屋・松壽軒(しょうじゅけん)は、建仁寺御用達の和菓子屋として、和菓子好きの間では知られた存在だ。そして、2代目店主の作るあんこが上品なあんこで、風味も味わいも別格と言いたくなるほどおいしい。
皮に山芋や大和芋などを加えた、もちっとした食感を楽しめる薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)は、雑味のないみずみずしいこしあんで、産地までこだわり抜いた小豆の風味が素晴らしい。
私が食べたのは、茶会にも使われる上生菓子の織部饅頭(おりべまんじゅう)だが、食べた瞬間、オーバーな表現ではなく、清流のそよ風が口の中から吹き上がってくるようだった。
さらに、同店のどら焼き「みかさ」の粒あんも一味違う。こちらは甘めで、小豆の風味も濃い。2代目自身が朝早くから夜遅くまであんこ作りに励んでいて、こしあんだけでも数種類を作っているのがすごいことだと思う。
一方で、同じ京都でも、おはぎをほとんど3種類しか作らない今西軒のような庶民的な和菓子屋もある。種類はこしあん、つぶしあん、きなこの3つ。こちらは上菓子屋ではないが、職人の手の匂いまで感じられるようなおはぎは、とてもおいしい。
あんこのみずみずしさとボリューム、半つきのもち米という組み合わせは、絶妙としか表現のしようがない。京都はまさに「和菓子の都」で、この迷路に入ったら、100年は出てこれそうもないと心配になるほどだ。
たまたま京都を例に挙げたが、私は東京を中心に全国各地のあんこ菓子を探し歩き、できるだけ店の人に取材(というより雑談に近い)をしながら、その店の何点かを買い求めて賞味している。
隠れた名店や、ほとんど無名な和菓子職人さんとの出会い……これがまた無上の楽しみなのである。時には怪しまれて不愛想な対応をされることもあるが、それもまた良し、と思っている。
絶妙なあんこ菓子に出会うと「小豆はどんなものを使っているのか、砂糖は何を? 塩は?」などと質問攻めにしてしまうので、時折、相手の表情に警戒心が滲み出ることもある。
途中でハッと気づいて「私はあんこが大好きで、単なる趣味で和菓子屋さんを訪ね歩いているんです。まだまだ旅の途中ですが、『あんこを求めて三千里』というところです。決して怪しいものではありません」などと、自虐を交えて自己紹介する。すると、相手はようやく打ち解けてくれるのだ。
良い和菓子職人さんは、実直な人柄が多いと思う。女将さんも気の良い人が多い。むろん全てではないが、こちらが和菓子好きと知ると、快く受け入れてくれることがよくある。
“幻の羊羹”を求めて
和菓子への探求は、食べるだけにとどまらない。江戸時代の和菓子に関心がある私は、2018年春、寒天を使った「煉り羊羹(ねりようかん)」について調べていた。
蒸し羊羹の歴史は古いが、煉り羊羹が初めて登場したのは江戸時代(寛政・1789~1801年)で、江戸の中心地・日本橋にて産声を上げたといわれる。そのおいしさは当時の江戸人(主に武士階級と商人)の舌を魅了し、やがて庶民の口にも届くようになっていく。今でこそ羊羹は若い人にあまり人気がないかもしれないが、当時はスイーツのスーパースターだった。
中でも菓子司・鈴木越後(すずきえちご)の煉り羊羹は別格で、驚くほどきめが細かく、当時の“おいしいもの番付”で「東の大関」になるほど人気を集めたそうだ。うなぎ屋や蕎麦屋を抑えて東の大関に位置付けられたのは、相当なこと。当時は横綱という地位はなく、東の大関が最高峰だった。ということは、江戸でナンバーワンのおいしいものだったと言うこともできる。
当時は添加物などない時代。江戸人の舌は現代人より優れていたのではないか、というのが私の見立てだが、その鈴木越後の煉り羊羹は私にとって“幻の羊羹”となった。鈴木越後は、明治維新ともに店じまいしてしまったからだ。
その羊羹を何としても食べてみたい。けれど、それはタイムマシンでもない限りとても不可能な望みだった。私は江戸時代に生まれていなかったことを後悔した。
だが、いろいろと調べていくうちに、鈴木越後の流れを汲む和菓子屋が富山にあることを知った。その名を鈴木亭という。
矢も盾もたまらず、失礼とは思いながらお店に電話をした。電話口にいるのは店員さんかと思ったが、話しているうちに、たまたま電話に出た5代目店主だということが分かった。
これは今思うと、あんこの神様のお陰かもしれない。つい長話してしまい、「そちらを訪ねてもよろしいですか?」と恐る恐る聞いてみる。すると「いいですよ。どうぞどうぞ」という温かい言葉が返ってきた。
その2日後、富山市内にある鈴木亭を訪ねた。話を聞くと、初代店主が江戸時代末期に日本橋の鈴木越後で修業した後、のれん分けに近い形で「鈴木の名前を使ってよろしい」と許可をもらい、故郷の富山に戻って店を開いたという。「鈴木亭」の屋号は、鈴木越後の当主から付けてもらったそうだ。
「代々作り続けているので、基本的には当時の鈴木越後とそう変わらない作り方をしていると思います」と目の前で用意してくれたのが「枠流し杢目羊羹(わくながしもくめようかん)」だった。
枠流しとは昔の羊羹作りの型で、木製の枠に作り立ての熱い羊羹を流し込んで作る。それを一昼夜ほど置き、十分に冷ましてから包丁で一棹(さお)*2ずつ切り分けていく。
ひとしきり話を伺った後、一棹買い求め、早めにあんこ旅を切り上げて、自宅で賞味となった。価格は1,404円(税込)。つややかな生の煉り羊羹で、手に持つとズシリと重く、一棹当たり700グラムある。
当時の鈴木越後の煉り羊羹と少し違うのは、羊羹の中に手亡豆(白いんげん豆のこと)の白あんが杢目(もくめ)のように流し込んであるということ。生羊羹なので、普通の煉り羊羹よりも賞味期限は短く、約1週間しかもたない。
今、目の前にある枠流しは、あの“幻の羊羹”に最も近いという一品。煎茶を入れ、正座をして、日本橋さるやの黒文字で口に運ぶ。
きめの細やかさ、みずみずしい凝縮感、良い小豆の風味……。全てが上質で、しかも品格を感じさせられる。
それ以上に、不可能だと思っていた幻の煉り羊羹をこの舌で味わえたことに対して、大きな感動を覚えた。妻や友人には私の「あんこ狂い」にあきれ返られたが、これは私にとってはエポックメイキングな出来事である。
個人的におすすめしたい、あんこ菓子5つ
ここで、皆さまにもあんこ菓子を食べてもらうべく、私がこれまで食べた中でもおすすめのあんこ菓子を5つご紹介したい。もちろん、これはあくまでも個人的な感想であることをお断りしておく。
京都・北野白梅町「粟餅所・澤屋」粟餅
粟餅は、こしあんときな粉の2種類。創業が1682年といわれているが、実際はもっと古いとも。店内の内装は、江戸・明治に紛れ込んでしまったかのような味わいを感じる。ご高齢の12代目店主と、その息子さん(13代目)が鮮やかな手つきで粟餅を丸めている光景は、感動的でさえある。
こしあんの特徴はしっとり感。いい小豆を使って丁寧に炊いていることがきれいな風味の中に表れている。甘さも絶妙だと思う。
東京・向島「志”満ん(じまん)草餅」草餅
創業は1869年。その当時から販売されている草餅(ヨモギ餅)は、ヨモギの香りが存分に楽しめる。種類はきな粉とこしあん入りの2つ。きな粉ファンも多いが、こしあんのおいしさが際立っていると思う。
渋切りをしすぎない、小豆本来のいい風味をここまで出すのは職人の技だと思う。小豆の賞味期限が当日中なので、そのまま食べ歩きしてもいい。
宮城・仙台「村上屋餅店」づんだ餅
創業は1877年だが、それ以前は伊達藩の菓子司だったようだ。づんだ餅の他に、ごま餅、くるみ餅もある。
枝豆をすりつぶしたづんだあんは、驚くほどきめが細かい。枝豆の皮を丁寧に取っている。「ずんだ」と表記する店も多いが、ここは「づんだ」にこだわっている。
東京・浅草「桃太郎」串あんだんご
東京・浅草には良い和菓子屋が多いが、私の好みの一つが、この庶民的な餅菓子屋・桃太郎だ。1872年に創業した店で、串あんだんごはこしあんのボリュームがすごい。使用している小豆は北海道産。しっとりとしたあんこで、風味も甘さもほど良い。
埼玉・鷲宮「島田菓子舗」あんこ玉
全国的にはあまり名の知られていない和菓子屋だが、とにかく安い。中でもあんこ玉は1個70円(税込)という安さで、大きさはピンポン玉大くらいある。塩気がきつめだが、こしあんのおいしさが70円のクオリティーとは思えない。北海道産の小豆を使っていて、風味も十分にある。
“配当金”は高い満足感 「あんこ道楽」にかけるお金
続いて、私の“あんこな生活”をお金の面から見ていこう。私の場合は、平均すると月3万円ほどをこの甘い道楽に当てている。
面白いことに、和菓子屋は高級店でも1個から和菓子を売ってくれることが多い。中には例外もあるかもしれないが、基本的には希望すればバラ売りしてくれるはずだ。価格帯は店によってまちまちだが、豆大福なら1個150~200円ほど。上生菓子になると、300~400円が目安になる。ちなみに、前述した志”満ん草餅の草餅は1つ145円(税込)。
おはぎやだんごなど生のあんこ菓子は「本日中にお召し上がりください」というものが多い。豆大福など餅菓子もせいぜい「翌日まで」が基本で、賞味期限が長いものは添加物が多く使われている、と考えた方がいい。どら焼きなどは賞味期限がやや長く、おおむね3~5日ほど。最中(もなか)や羊羹はもっと長いので、多めに買うことができる。
なので、私は賞味期限の短いものは2~3個(場合によっては1個)買い求め、残りは最小単位の箱詰め(6個入り)を買うことにしている。一度の出費は1,000円以内に抑えている。
また、和菓子屋巡りには車を使うことが多いので、ガソリン代や高速料金の出費が意外とバカにならない。さらに遠出したり何カ所かまとめて巡るときなどは、電車代や宿泊代もかかる。もっぱら安いビジネスホテルか民宿を利用するが、場所によっては総経費が1回の遠出で3万円をオーバーすることもある。
そのときはこう考える。これだけの満足が得られるなら、多少の出費は仕方がない、と。つまり、配当金は満足代というわけである。あんこ道楽もつらいよ、などと寅さん気取りで自嘲を楽しむこともあるが、要は楽しめるかどうかだと思う。
「ANKO」が世界共通語になる日を夢見て
最後に、あんこの新しい可能性について書いておきたい。
かつては「海外の人々(特に欧米)には味を理解してもらえない」と言われてきた和菓子だが、1980年に和菓子の老舗・虎屋がフランス・パリに進出し、喫茶室付きの支店を展開した。置いている商品は日本とほとんど同じで、今ではパリっ子の人気スポットになっているようだ。パリによく行く友人によると、喫茶室でパリっ子が冷やしぜんざいをおいしそうに食べている光景も珍しくはないそう。
今でこそ「SUSHI」は世界共通語になったが、一昔前まで海外の人々からは「火を通さない生ものなんて食べない」「危険だし、気持ち悪い」と言われてきた。それが今や世界中に寿司店が広がり、寿司好きの人など珍しくなくなっている。
そう考えると、海外の人々の間で、抹茶が静かなブームになっていることと連動するように、和菓子が大人気になる日が来るかもしれない。世界があんこの魅力に気付き始めた、といっても過言ではない。京都や浅草などでは、抹茶小豆アイスをうまそうに食べる海外の観光客の姿もよく見るようになった。
一方で、老舗の和菓子屋は新ブランドを立ち上げ、新しいあんこ菓子を見出そうとしている。例えば銀座の空也(くうや)は「空いろ」というブランドを展開しており、粒あんをクッキーでサンドするなど、さまざまな挑戦をしている。
岡埜栄泉(おかのえいせん)総本家の6代目も、麻布十番で「いろがみ」という新ブランドを立ち上げており、これまでにない和スイーツ作りに取り組み始めている。また、パティシエが洋菓子にあんこを取り入れるといった動きも見られる。
あんこの新時代が始まりつつあると思う。「SUSHI」と同じように「ANKO」が世界共通語になる日も、そう遠い話ではないと思う。
リタイア後の楽しみには、こうしたあんこ文化が世界に出ていくのを見守る、というのも含まれている。「あんこを求めて三千里」は、絵空事ではない。楽しみはむしろ増えるばかりだ。
会津若松市生まれ。子供のころにあんこの魅力に取りつかれ、気が付いたら、あんこ菓子を食べ歩いていた。コピーライターを経て新聞社へ。東京ばかりではなく地方の和菓子屋を探訪しながら食べるのが趣味となる。
*1:お酒が好きな人のこと
*2:1本
*3:江戸時代中期創業のつまようじ専門店
*4:つまようじのこと
*5:小豆をゆでる際に、煮汁を捨てて水を足していくこと