1日に7,500万円分の技術書が流通する「技術書典」の仕組みと挑戦
皆さんは「技術書典」というイベントをご存じでしょうか。技術書典は、技術書の頒布を通じて、新しい技術に出会えるお祭りです。2016年に第1回を開催して以降、2017年から年に2回のペースで行われています。
私は、このイベントを主宰しているエンジニアのmhidakaです。「いろいろな技術の普及を手伝いたい」という思いで立ち上げた技術書典も、2018年10月には第5回を迎えました。
開催 | 来場者数 | 前回からの増加率 |
---|---|---|
技術書典(2016年6月) 会場:秋葉原 通運会館 |
1,400 | - |
技術書典2(2017年4月) 会場:アキバ・スクエア |
3,400 | +142% |
技術書典3(2017年10月) 会場:秋葉原UDX |
2,750 | -19% |
技術書典4(2018年4月) 会場:秋葉原UDX |
6,380 | +132% |
技術書典5(2018年10月) 会場:池袋 サンシャインシティ2F 展示ホールD |
10,340 | +62% |
こちらは、過去5回における来場者数の推移です。運営事務局が把握している大まかな統計値がベースになっています。
第3回を除いて、大幅な増加率が続いています*1。技術書という特定ジャンルのイベントとしては、驚異的な成長率ではないでしょうか。実は主宰者自身も、立ち上げ当初はこんなに規模が大きくなるとは思いませんでした。
このことを踏まえ、本記事では、技術書典にまつわる実績を数字で振り返りつつ、イベントが成長していく軌跡を紹介します。四苦八苦してきた運営側の感想と共にお楽しみください。
技術書典が生まれた背景と、多くの人に受け入れられた理由
技術書典が多くの人に受け入れられた背景には、いくつかのポイントがあったと考えています。その中から一つを挙げると、最新の技術情報が体系的に集まっているという点でしょう。
もともと技術書、特にIT関連書籍は変化が激しい分野です。一般的な商業書籍の場合、出版時には、記載した情報がすでに“時代遅れ”になってしまうということもしばしばありました。
新しい技術を学びたいと思って書店を訪れた際、書棚から選ぶには本の種類が少なく、情報の鮮度も不明なので買いにくいという経験をしたことはないでしょうか。また、特に知らない分野だと、自分から気になる本を探すというよりは、友人・知人の口コミやWebサイトの書評を頼りに選んでいくことになりがちです。
学びたい技術をWebで調べる場合も、情報が古かったり、環境の違いがあってうまくいかなかったり、情報が部分的であったりと、初学者に対して情報の取捨選択が求められます。
このように、技術書典ができる前から、エンジニア界隈では「技術的な知見が集まるリーズナブルな方法」が求められていた……と考えることができそうです。
しかし、主宰者は最初からその需要を狙って技術書典を立ち上げることにしたわけではありません。それよりは、新しい分野の技術を学ぼうとしたときに独力で成し遂げられる人は少ないだろうと考え、技術に関する学びの場を用意したいという気持ちの方が強かったのです。
なので、技術書典は「技術における情報発信の場」や「コミュニティーへの入り口」として機能させたいという思いから出発しました。
コミュニケーションの場として機能する技術書典
技術書典には、Web上ではない“オフライン”でのリアルイベントという特徴があります。対面でコミュニケーションをするので、著者は苦労して作った技術書を読者に直接手渡すことができ、読者は著者と会話をしながら効率良く専門知識を手に入れることが可能です。
まだ完璧ではありませんが、運営の際にはこうした「技術を語り合えるコミュニケーションの場」としてイベントが機能するように心掛けています。
技術書典で取り扱うジャンルは幅広く、ソフトウェア・ハードウェア・開発環境・コンピュータサイエンスから、その他の科学・工学全般まで、さまざまな技術を対象としています。架空の工学や、未知の科学技術も対象です。
また「作ってみた」「やってみた」をはじめとする体験談や考察、上記のジャンルに付帯した開発効率を高める方法のようなライフスタイル、実体験も対象としており、幅広いスコープを扱っています。出版物も、紙の本のみならず、電子書籍、USBをはじめとする物理メディアなどさまざまです。
発表の場としては、ジャンルを絞らず自由にした方が、面白い技術との出会いに期待できます。過去のトレンド傾向は、マシンラーニングやモバイルなどのソフトウェア分野、数学や法学、エンジニアのライフスタイル、食に関わるライフハック技術、文字コード、自作キーボードなど。技術書典では、その時々の旬にあわせて人気ジャンルが生まれています。
では、本を買い求める読者は、イベントに何を求めているのでしょうか。ここからは、技術書典の参加者を対象にしたアンケートをベースに、それぞれの数字で見ていきましょう。
開催 | 出版部数(総合) | 1人当たりの購入数 |
技術書典(2016年6月) | 8,000 | 5.5 |
技術書典2(2017年4月) | 22,000 | 6.5 |
技術書典3(2017年10月) | 20,000 | 7.2 |
技術書典4(2018年4月) | 40,000 | 6.2 |
技術書典5(2018年10月) | 75,000 | 7.5 |
こちらは、開催回ごとの出版部数と、来場者1人当たりの購入数です。回を重ねるごとに出版物の流通量が増えています。イベントの規模が拡大しても、1人当たりの購入数に変化はありません。
これは、技術書典というコミュニティーに根強い需要があることを示しており、より面白い技術に出会いたい来場者と、自らの“推し技術”を布教したい出展者が一同に介する価値の大きさを裏付ける結果となっています。
出展者が1回当たりに頒布する出版物の数は、平均すると150冊程度。中には1,000部以上を頒布する出展者も出始めています。この数字は、1日に売れる技術書として、すでに商業書籍を上回りつつあると推測されます。
また、再度参加する上で新しい本を用意して臨む出展者は、全体の95%にも上ります。これも、技術書典が「技術の情報を発信する場」の一つとして受け入れられているのではと考えています。
出版物の価格帯は、無料から数千円までさまざま。平均すると1,000円程度でしょうか。2018年10月に開催した技術書典5を例に挙げると、1人当たりの平均購入数が7.5冊なので、単純計算で1日に7,500万円分の技術書が購入されたことになります。すごいですね。
ただ、本記事で紹介しているこれらの数字は、あくまでもイベントを俯瞰するためのものです。主宰者としては、こうした数字を伸ばしていくより、常に「著者が情報を発信することを楽しんでほしい」という気持ちでいます。
出展者には、部数を伸ばしていくことを気にせずに趣味の範囲で楽しんでもらいたいですし、逆に部数を多く用意して臨んでもらってもいいと考えています。どちらにせよ、著者の「技術を伝えたい」という思いを、著者の望む形で手伝うことができれば、主宰としては本望なのです。
また、イベントに多くの人が集まることで、ニッチな分野でも成立する技術共有の場にさせたいとも考えています。例えば、技術書典3のアンケートデータからは、次のような統計値が取得できています。
横軸が出展者の持ち込み部数、縦軸が新刊の出版部数
データはオリジナルに手を加えており、同じ場所へのプロット(点)がある場合はそのまま重ねています
赤色で書き足したラインは、完売を示す線です。技術書典3では、出展者のうち64.7%が出版物を完売させたという結果になっています。この完売率は、技術を知りたい人と技術を共有したい人の多くがマッチングした結果と言えるでしょう。
“円滑”と“効率”を重視 技術書典を支えるチャレンジングな取り組み
ありがたいことに来場者は増加し続けていますが、そうなると必然的に「会場内が混雑する」という問題が発生します。これにより、会場内における動線の確保はイベント運営における重要事項の一つになりました。主宰者としても、来場者が増えることで出版物が多くの人の目に触れ、多くの人に技術を知ってもらうことが重要だと考えているからです。
特に大切なのは、会場内の混雑にも影響を与える出展者の配置です。技術書典では、ジャンルの類似度を利用し、半自動化で出展者の配置を決めています。
類似したテーマを扱う出展者を近接配置することで、来場者は興味のあるジャンルを効率良く巡ることができます。また、出展者側にとっても、自分と類似したジャンルを扱っている隣の出展者と交流がしやすくなるでしょう。
技術書典は、この配置設計も、参加者同士のコミュニケーションを支える取り組みの一つであると考えています。
サークル半自動配置の導入 | 技術書典ブログ
また技術書典3からは、来場者向けの取り組みとして、イベント後の支払いに対応したクレジットカードによる「かんたん後払い」というサービスを導入しています。
これは、来場者が事前にユーザー登録しておくことで、当日の支払い・清算を運営が代わりに行うという仕組みです。お金の受け渡しの手間が省けるので、ブース前の混雑解消が期待できます。
開催 | 利用者数 | 全体に対する利用率 | 前回からの増加率 |
---|---|---|---|
技術書典4(2018年4月) | 300〜 | 4% | - |
技術書典5(2018年10月) | 1,300〜 | 12% | +300% |
技術書典3でAndroid向けに、技術書典4ではiOS向けにも提供を始めた
上記データは技術書典4からの集計
こちらは「かんたん後払い」の利用者数のデータです。技術書典5では、1,300人超の来場者がサービスを利用しています。なお、このデータは、統計処理を行った後、会場の動線設計やジャンルなどの配置最適化、アフターサポートの満足度を高める取り組みにも生かしています。
このように技術書典では、イベント運営に関する改善のアプローチを、自動化やデータ分析、そして参加者によるアンケートを通じて模索しています。
運営もリソースが限られているため、全てを良い形で実施するのは難しいですが、試行錯誤を繰り返しながら、可能な範囲で施策を取り入れています。
新しい技術に出会えるお祭りは、デジタルな統計手法と参加者の声で支えられているのです。
ここまで、過去5回における技術書典の実績に触れてきました。スタートしてから2年間で、急激に拡大してきた様子が読み取れたのではないかと思います。主宰者としても、規模の拡大に追従していくために、毎回新しいチャレンジを取り入れています。
技術書典が目指す“新しい出版”の形
これまで、出版といえば商業出版を指すことが多く、知識は商業書籍を通じて得るという形が当たり前でした。
一方で、商業書籍の刊行速度が時代に合わなくなり、Webでも知りたい情報になかなかたどり着けなくなってきているといった現状もあります。よって、技術書典のような即時性があるオフラインコミュニケーション(おおむね技術書典で頒布される出版物は1~2カ月で作られるので、情報も新鮮)や情報発信が、多くの人に受け入れられつつあります。
今、知識を得る手段として本が見直されつつあると感じています。2018年は、技術書典を通じて延べ2万人の参加者が、10万冊を超える技術書を手にしています。多くの本はこの場でしか手に入らないですし、知識を手に入れるための新しい方法が生まれたとも言えます。
しかし収益という意味では、基本的に自費出版の枠組みということもあり、商業書籍に比べて安定しているわけではありません。技術書典で出版した本によって出展者に儲けがあるといいなとは思いますが、出展者のモチベーションはそこに限定されているわけではないようにも感じています。
出展者たちは数百冊の本を自費で作成していますし、そこには多少なりともリスクが伴います(電子書籍として頒布するなら、在庫を抱えることなくリスクを大幅に小さくできます)。
それを乗り越えてでも参加する背景には、面白い技術に出会いたいという知識欲に加えて、技術情報を共有したいという思いや、技術書を通じたコミュニケーションへの渇望があると考えています。
開催 | 出展者数 |
---|---|
技術書典(2016年6月) | 59 |
技術書典2(2017年4月) | 189 |
技術書典3(2017年10月) | 193 |
技術書典4(2018年4月) | 246 |
技術書典5(2018年10月) | 471 |
このように、出展者は回を重ねるごとに増加しています。また、技術書典4までの各回出展者のうち20〜25%は、初めて出版物を作ってイベントに参加した層です。さらに技術書典5では、出展者の44%が初めて出版物を作ったという結果が出ています。
このデータから、技術書典が「知識を出版物にまとめて発表する場」だけでなく、「技術のアウトプットを楽しみながらコミュニケーションをする技術共有の場」として浸透し、機能しつつあるのではないかと考えています。
統計値を見る限り、技術書典の規模は今後も拡大していくでしょう。しかし前述したように、出版物の製作には少なからず初期費用が必要で、それが出展者の負担になっているというのも事実です。この他、現状の頒布形態が誰にでも簡単にできるものとは言い難いという点、会場内の混雑など、イベントやコミュニケーションを円滑に楽しむ上での課題がまだまだ残されています。
技術書典が掲げる当面の目標は、これらの問題を解決していくことです。その上で、メジャーやニッチを問うことなく各コミュニティーで知識を共有できる場を作り、個人の成長を促し、次の技術的アウトプットにつながる循環を支えていきたいと考えています。
こうした技術書典のような場が定着すれば、個人でも書籍などを作って発信するということが、出版のスタンダードとして認知されていくかもしれません。
大阪出身のソフトウェアエンジニア。技術書典以外にもDroidKaigiというAndroidエンジニア向けカンファレンスの代表理事を務めている。普段は会社で働いているが、本人は業務も楽しくすごす性質があるので、勤労している意識は皆無ということが最近分かった。年に6冊ぐらい執筆したり編集したりしている。原稿と共に生きている。